高校も卒業し、自分の進路も考えはじめる一日が多くなり、自分のこの先の行く方向が見えなくなった時期でもありました。高野岳志さんは病院を1981年9月に「このまま病院では死にたくない」との思いも強く父親の反対も押し切り千葉市に民間アパートを借りて共同生活の場を作り障害者により障害者の為の自立支援を行う宮崎障害者生活センターを設立しました。
センターの活動内容としては、自立援助活動、介助の保障、リフト付きバスの運行、ボランティアの育成、情宣、啓もう活動
労働活動
内職・作業部門
障害者の店よろず市(バザー)
廃品回収
等と地域に根差した生活をして第二の人生を謳歌していました。
また。もう一人の先輩の福嶋あき江さんは、やはり高野さんと同様施設での暮らしもワンパターン化して来た生活に不満を感じはじめ呆然とながらも自立生活を考えたと前に聞いた事があります。
努力家であった福嶋さんは高校を卒業後、病院に居ながらも英語を身につけたいとの思いで一生懸命勉強をしていました。そんな努力もあって、1980年 ICYE(国際キリスト教青年交換連盟)のプログラムに応募。試験受け合格。
あき江さんが積極的に望んだ国際キリスト教青年交換(ICYE)による海外留学は、あき江さんにとってまたとない絶好のチヤンスでした。学校と病院の若い人たちに呼びかけ「福嶋あき江と歩む会」が発足し、三十四名がカを尽してあき江のアメリカ留学を支援していったのです、みなさんのお力添えで海外に1年間留学したのでした。その後、1983年アメリから帰国したあき江さんは、やはり高野さんと同様地域に出て生活を送りたいと共同ハウスを作り、人生を謳歌していました。
このお二人の様に、自分に何が出来て何が必要とされているのかが、まだ分からず模索中しながらも療養所での縛ら、時間に追われる生活の中でも生きがいを見出す為にもいろんな事に挑戦しました。長く続いたのは、バンド活動と写真です。
バイト活動では、病院での文化祭みたいな自次会の太陽祭と言う催し物で歌を披露し、また、療養中の人達作った詩を披露し、オーディションを受けたりしていました。写真活動では、やはり、太陽祭のポスター作りや絵画を描く人とのコラボで展示会を今は無い千葉市の扇屋でしました。
また。療養生活の中で私ぐらいな者でしょうか?
途中3回も病棟を変えられのは、最初は七病棟から八病棟。これは在学生と分離し神経内科の専門病棟を作ると言う事でした。もう一回は六病棟に病棟長が居ないからなって病棟を纏めて欲しいとの事で引き受けてしまい。移動し約1年間勤めました。
その中でもやはり一人の男として異性に興味出て来る歳も結構過ぎ此処では書ききれない事もあります。
ほとんどは、片思いで終わってしまうのですが、若い頃両想いでハッピーハッピーなひと時を過ごした事もありました。
「人間生きてりゃ!障害があろうが無かろうがいろんな出会い別れが別れもありますよね」そんなこんなと中学生から悶々していた気持ち「障害者は何故施設で暮らさなくては行けないとか」「障害者でも社会貢献はできるのでは無いのかとかもっと地域に出て生きてる存在をアピールするべきだとか」様々な考えをしていた。1984年頃から益々その思いが強くなって、以前高野さんから
「病院で死ぬなら死ぬ気で 何が起ころうと自分やりたい事をやって楽しく人生を謳歌しろ」
「何かあったら相談しろ!」
「俺と一緒に地球に出て根差した生活をしょう!」
と言われた事を思い出しました。
1984年代は、もう高野さんは、永眠されて居ましたが、その代わり宮崎障害者生活センターを引き継いだ井上正明さんが代表でした。井上さんとの関わりは、同じ病院で生活した写真仲間でもあり面識が無い訳でも無いので「病院を出て自立生活をしたいと」相談した所、井上さんからは、ちょっと沈黙あったのちに「自立生活は簡単なものでは無いし、病院の様に呼べば直ぐに人が来て助けてくれるものでは無い。衣・食・住、自分生活を支えてくれる人を24時間確保て全て自己責任でやらなくてはならない」と言っていましたが、その話しは、生前高野さんから聞かされ「生優しい」ものでは無い散々忠告されていたので覚悟していたので、そんな事は百もご承知ですと言った感じでした。
「とりあえず、もう一度考え家族と話し合いなさい」と言われました。
考えてみると高野さんと井上さんは家族に猛反対されていたのを思い出します。
でも、俺はありふれた規制されワンパターン化された療養所生活を脱したく24年間過ごしたこの病院を出る事を決意しました。
SMAP STATION
最近深刻化してきている地球危機について様々な情報を基に地球の未来を考え、今何をしなければいけないのか? 日々模索しております。 もう時間がありません! 未来の子供を守るために・・・
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