千葉の療養所に来てから、3ヶ月が経ち、生活のペースに慣れてきた俺は、あいかわらずのいい子ちゃんを通していた。
いい子ちゃんとしてたんたんと療養所での生活を送っていたが、周りの子はあまりおとなしい子はいなかった。
誰かしら「かんごっさ〜〜ん!」「かんごっさ〜〜ん!」
と叫んでおり、(何故かみんな婦を省略して呼んでいた) あちらこちらからせわしなく話し声が聞こえてくる。
排泄介助は時間が決まっていて、その時間に一斉に行われる。
よって、ベットサイドで排泄をする子は紙便器をあて、排便をするのだが、うまくこの時間に排泄がもよおされるとも限らず、なかなか便意をもよおさない場合は前もって座薬を肛門から入れておく。レシカルボンという座薬で便秘症に使われる薬だが、便秘症で使われるというよりは早めに時間どおりに排便を促す為に使用されていたみたいだ。
つまり排泄の時間までもが管理されていた。自分のしたい時間に出来ないということだ。
当然排泄を我慢したり、水分を制限してしまったりする子もいた。
いつも便や尿の匂いは部屋に充満したいたし、それは廊下にも漂っていた。
看護婦さん達は「ちょっと待ってて〜〜!」と叫びながらせわしなく動いていた。泣き叫ぶ声や言い争いなどの声が聞こえたりしてとにかく騒がしかったし、目まぐるしかった。そんな生活を送り半年経ったある日、NHKの取材班が来た。
カメラマン、照明などのスタッフ3名くらいだった。
彼らは、ある筋ジストロフィーの子の取材に来ていた。
これから彼の日常生活を一年かけて取材させてもらいますのでよろしくお願いします。
と言っていた。
そして撮影が始まった。
子供達はTVカメラや照明ライト、マイクなどを使い撮影する普段あまり見ることのない光景を面白がってはしゃぎながら見ていたし、看護婦さん達もかなり意識してしており、カメラを向けられると異様に緊張してしまい、固くなってしまっていた。中には気にいらないと、もう一回いいですか?と言って撮り直しを頼んだりする看護婦さんもいた。
ベット越しで見ていた俺はそういった普段見慣れない光景が面白くて仕方なかった。
取材された子は14才の中学2年生、筋ジストロフィーの子だった。NHK取材班は、一生懸命車椅子に乗ったり、機能訓練を行っている少年のさまざまな日常生活の様子を撮影していた。
そうした撮影は、一年間続いた。
俺はなぜこの少年が取り上げられ取材を受けているのか分からなかった。
後にその人が高野岳志という少年であったことを知る。
このドキュメント番組はNHKで一年後に放送され、反響を呼んだ。
いくつかの賞も取っている。モンテカルロ国際テレビ際ゴールデンニンフ賞(最優秀作品賞)、日本テレフィルム技術賞奨励賞受賞(撮影)である。
療養所でも、プレイルームでみんなを集めて録画されたTVビデオでの観賞会が行われた。
自分が写っていた子は大騒ぎではしゃぎ、看護婦さん同士でも自分の写り具合を見て、恥ずかしそうに談笑していた。
俺の小学生の高学年時代は療養所という枠の中で決められたルールに流されながら、受動的な生活を送っていた。
決まった事をひたすらやり続ける日々。
そして自分の意志で行う事はほとんどない。
つまり、自分の意志とは無関係にその日のやるべき事をこなす生活であった。
5年生の冬休みがきた。
俺は初めて療養所から自宅に外出した。
母は「おかえり!」とにこやかに言って迎えてくれた。
居間にはコタツがあり、灯油ストーブがあった。灯油ストーブの上にはヤカンが置かれており、常に水蒸気が出ていた。
俺にとっては初めてのコタツであった。なんてあったかい!と感動した記憶がある。
家庭の冬の温もりをしみじみと感じていた。
夜になり、親父が帰ってくるとヤカンにとっくりを入れて熱燗をしていた。
親父は口数が少なくて、ほとんど口をきかなかった。
家族みんなでカレーライスを食べた。
大晦日は夜遅くまで兄弟妹でにぎやかに過ごしていた。
療養所では決して夜遅くまで起きていることは許されなかったから
こんなに夜遅くまで起きて遊べることが本当に新鮮で楽しかった。
家族と迎える初めてのお正月は親からお年玉をもらい弟妹達と楽しく遊んでいた。
トランプをしたり、ボードゲームをしたり、TVを見たりしていた。
約2週間くらいの冬休みも終わりいよいよ帰る時が来た。
帰る前日から俺は本当に療養所に帰るのが嫌で嫌でたまらない気持ちがこみあげてきてしまった。
そしていよいよ帰る当日・・・・
俺はどうなってしまったかというと・・・!
朝からかなり憂鬱な顔をしていて何も話さなかった。
周りからみてもあからさまに不機嫌だったと思う。
親父の車に乗るとたちまち悲しみがこみあげてきて一人後部座席の隅でしくしくと泣きだしてしまった。
親父、おふくろ、妹と4人で車に乗りS病院へ向かう道中、俺はずっと泣いていたのだった。
自宅での生活・・・・
自宅ではそれなりの自由が待っていた。
自分の意志で生活する自由だ・・・・・。
身体は動かなかったが、自由にTVを見たり、弟妹達と絵を描いたり、お菓子を食べたり、遊んだり好きな事を好きな時間に出来たし、いわゆる家族と普通に暮らす事がなにより楽しかったしうれしかったのだ。
俺は北海道の療養所にいた時は周りのみんなが長期の休みに自宅に帰るのをただ見ていただけだった。家族と会うことすらなかった。看護婦さんが親代わりであった。しかし、5年間ずっと待ちわびていた。今までずっと求め続けてきた家族の温もりをようやく10歳になってから味わう事ができる日がきたのだ。その思いや感動をひしひしと感じていた。
待ち焦がれた家庭での生活・・・・・だったのだ。
ゆえに、療養所生活と家とのギャップは大変大きかった。
だから当然、療養所に帰る事は本当に嫌で嫌で仕方なかったのである。
自宅から療養所につくと俺はたちまち悪い子に変貌した!
看護婦さんに罵声を浴びせ、家族にも罵声を浴びせた!
「なんで!俺だけこんな病院に帰ってこなくちゃいけないんだよ〜!!!!」
「くそばばあ〜〜〜!!!!」
「こんな悪魔のいる病院なんていたくね〜〜〜!!!」
泣きじゃくりながら叫び続けていた。
今まで溜まりに溜まっていた不満やストレスを一気に吹きだしてしまったのだ。
俺はずっといい子ちゃんで通っていた。
不満も一度も言った事がなかったし、わがままも一度も言った事がなかった。
それまでは・・・・・・
しかしその時はもはやそれしか考えられなかった!
もう・・・戻りたくない・・・・こんな病院に・・・・!!
俺はずっとずっと病院生活が嫌で嫌でしかたなかったのだ・・・・!
しかしそれを誰にも言わず、ずっとずっと封印し、我慢してきた。
そしてひたすらいい子を演じ続けてきたのだ・・・・。
罵声を浴びせられた看護婦さんたちは一様に驚愕したいた。
まさかあのいい子ちゃんが・・・・・!?
という表情をしていた。
親父とおふくろはただただ黙って聞いていた。
車から病室に戻るまでずーっと泣き叫び悪態を言い続けていた。
俺の罵声は病棟中に響きわたっていた。
俺は完全に理性を無くしていた。
周りは相当困ったと思う・・・・
S病院に来てからというもの俺は長期の休みに実家に帰るたびにこんな事を繰り返していた。
毎回長期の休みが終わり療養所に帰る度に、怒鳴り!泣き!わめきちらしていた。
それは2年間くらい続いた。
中学生になる頃にはもう泣く事はなくなっていったと同時に、自立心が芽生え始めて、思春期を迎え家族に対する考えが少しずつ変わっていった。
俺はやはり真面目で無口な中学生になっていた。
to be continue
SMAP STATION
最近深刻化してきている地球危機について様々な情報を基に地球の未来を考え、今何をしなければいけないのか? 日々模索しております。 もう時間がありません! 未来の子供を守るために・・・
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