GAKUヒストリー10

千葉での療養生活が始まった。

俺は小学5年生、2学期が始まる頃だった。

ここは重度身体障害者の療養所で子供から成人になるまでの子達が療養している。

そしてそこでの生活も毎日が規則正しい寄宿舎のような生活であった。

しかし・・・北海道の療養所よりはるかに厳しい生活が待っていた。

北海道では、のんびりとした生活を送っていた俺にとってそこは別世界に来たように感じた。

まず、朝6時に起床する。看護婦さんが各部屋を回り起こしに来る。

「はい!起きなさ〜い! 起きる時間ですよ〜」

動ける子は着替えをし洗面所へ向かう。

一斉に皆が動き始めるのだ。

そこでは日常生活行動全てが機能訓練であったため、看護婦さんは一切手をかけることはない・・・

全て自力で行わなければならないのだ。

立つことや歩く事が困難な子も、這う子がいたりイザリ(身体をひきずる事を俺たちはこう呼んだ)をしながら移動する。

プレイルームまで最長25m。(部屋によって距離が違う)

辿り着くまで1時間かかる子もいた・・・・

でも、決して看護婦さんは手助けする事はなかった。

ただひたすら 早くしなさいよ!早くしなさいよ!と言っていた。

1時間かけてやっとプレイルームにたどり着いた子は、とっくに朝食の時間が過ぎているため

朝食を取らずに、自分で " ごちそうさまでした " と言って

かっぱんをする。

かっぱんとはおかずの入ったお椀をごはんのお椀にかぶせる事で、かっぱん!と蓋をするように合わせる事から俺たちはそう呼んだ。

そして朝食を食べる事なく、次の準備にとりかかるのだ。

俺はみんな程、足を動かす事が出来なかったため、ほとんどベット上から他へ移動することがなく看護婦さんの介助が必要だった。

俺は生活のほとんどをベット上で過ごした。

だからプレイルームでみんなと食事をとる事はなかった。

はみがきや洗面などもベット上で行っていた。

俺はみんなが戦争のように一斉に移動する様子を見ていた。

30人くらいの筋ジストロフィーの子供達は、動かない手や足を歯をくいしばりながら動かして移動する。皆必死であった。とにかく時間内に終わらせなければならないのだった。どの子も競い合うように移動していた。療養所ではあまり遊ぶ時間が取れなかった事からそのようにしてお互い遊び感覚で競いあっていたのだ。

朝食が終わると隣の養護学校へ移動する。

俺は車椅子まで自力で移乗することが出来なかったし、漕ぐ事も出来なかったので勉強もベット学習であった。

車椅子に移乗できる子は、隣に隣接する養護学校までとにかく移動する。

それでもどうしてもついていけない子もいた。

そういう子は隣の喘息病棟の子が車椅子を押してあげたりしていた。

俺はベット上で先生がやってくるのを待っていた。

俺のところには9時に先生がやってきた。

同じ部屋に俺と同じように養護学校まで行けない子が一人いて、その子と俺は先生からマンツーマンで勉強を教えてもらっていた。もう一人は俺より一つくらい上だったと思う。

俺は千葉にきてからもおとなしくていい子ちゃんと呼ばれていた。

自分を出す事もせず、ただ言われるがままの生活だった。

小学生の時はほぼ時間で決められた生活をしていたせいか楽しい思い出はほとんどない。

ひたすら勉強と午後からの機能訓練だ。

ほぼ毎日午後からは機能訓練の時間になる。

午後2時になると皆、廊下に一斉に出る。その時、軍艦マーチのような音楽が流れていた。機能訓練をするのだ。筋ジストロフィーの子は、ギプスをつけての歩行訓練。

俺はいざり移動をしていた。50mほとんど両腕の力だけで体重を支えて移動するのだ。

50mはかなりきつく、息も荒くなり必死にやった。

それと1kgの重りをお腹に乗せて深呼吸をする訓練もしていた。

機能訓練は約1時間である。

それが終わるとおやつの時間だ。

プレイルームでみんなでおやつを食べる。

例えばバナナ半分だけとかみかん1個。良くてカステラ1切れだけ、フルーツ牛乳!?(俺たちはそう呼んでいた)という飲み物だったりした。


週に2回入浴が出来た。

それ以外は身体を拭く事もなかったし、服も着替える事もなかった。

あくまでも介助は最小限であった。つまり排泄のみだ。

ベット上から出るのは訓練の時と入浴時のみであった。

日常生活の行動範囲はかなり狭かったと思う。

なので友達はなかなか出来ず、いつも孤独であった。

そんな俺の唯一の楽しみは、ラジオを聞く事であった。

朝の8時くらいにニッポン放送でやっていた心のポエムだ。あまりよく覚えていないが多分そんな名前だった気がする。

リスナーから投稿されたポエム(詩)の朗読をしてくれるのだ。

その頃ラジオが療養所内で流行っていて、みんなそのラジオ番組を聞いていた。

そして俺はある日一遍の詩を番組宛てに送った。

そしたらなんとその詩がラジオから流れた!

選ばれて朗読されたのだ!

題名は 僕に翼があったなら・・・虹の向こうへ・・・かな?

どんな詩であったかは残念ながら忘れてしまった・・・・

後日ニッポン放送から番組のタオルが送られてきた。

本当に嬉しかった。

療養所のみんなはとてもうらやましがり、こぞって詩を書いてはニッポン放送に投稿していた。

その後何人か選ばれて朗読されていた。

どの子の詩も自分の身体の不自由のために閉鎖的になってしまった心を開放するような詩であったと思う。


こうして療養所での限られた施設の中で暮らさなければならなかった子供達は

知恵やバイタリティーで自分達のモチベーション作り上げ、鍛え上げられていった。


この療養所で、さまざまな出会いがあった。

そして俺は自分の人生観を変えるある先輩との出会いによって

のちに壮絶な人生を送ることになる。


                  to be continue

          


   











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最近深刻化してきている地球危機について様々な情報を基に地球の未来を考え、今何をしなければいけないのか? 日々模索しております。 もう時間がありません! 未来の子供を守るために・・・