小学校5年生の夏休み前。俺は父親と羽田空港にいた。
当時の羽田空港は現在のように飛行機のとなりにトラップが横着けされる事は無く、階段が付いた昇降車が来て飛行機から降りるようになっていた。
俺は親父に抱かれて階段を降りていった。そこにはパトロールカーのような車が待機しており、それに乗って空港入り口へと向かった。
ロビーに着いたが誰も迎えはいなかった。俺は母親が空港で待っているのかと期待していたのだが、その期待は裏切られてしまった。
”まーそんなものか・・・・”
車で千葉の君津にある自宅へと向かった。
小学生の一年生で別れたきり母親には5年間一度も会わなかった・・・
5年ぶりの再会である。
やっと家族の元に来れた!
俺はどんなにこの日を待ちわびていたことか!
車の中で親父と2人きり・・・
親父は無言で運転しており、カーステレオからはラジオが流れていた。
俺はそれまでラジオを聞いた事がなく 少し感動しながら聞いていた。
演歌が流れていた。
夕方頃いよいよ自宅に着いた。
自宅は社宅で狭くて暗かった。玄関を開けるといろいろな匂いがした。
金魚の水槽の匂い、たばこの匂い、油の匂い
いわゆる生活臭だ。
俺はずっと病院にいたせいか、全く違う匂いに戸惑っていた。
奥から母親と祖母がかけよってきた!
親父に抱えられた俺を見て・・・・・
”おかえり!”
そして二人とも 俺の姿を見るなり 泣き出した・・・
かなりの時が経った。
とにかくずっと泣いていたのだ・・・・
俺を抱いて泣きながら居間に行き椅子に座らせた後
妹を紹介された。
妹は誰?というような不思議そうな顔をして俺を見ていた。
妹はまだ3歳だった。
弟もややぎこちなく話しかけてくれた。
弟は一年前の夏休みに一度会っていたから、そんなに驚かなかった。
初めて来た自宅はとても狭く感じた。
居間の壁際にはいろいろな物が置かれていた。
サイドボードには、大きな盃やらが乗せられており、中には毛糸で編んだカバーがかけられたウイスキーボトルが陳列されていた。
タバコの包み紙で作った傘、8トラックのレコーダー
肘掛けが木で出来たソファー、大きなキューピーちゃん人形。
今から思えば昭和レトログッツが盛りだくさんに所狭しと置かれていた。
5年間北海道の療養所にいた俺には、そんな自宅を見るのはとても新鮮だった。
夜になり お袋とおばあちゃんは俺をお風呂に入れた。
俺の裸を見て さらに泣き出した。
ごめんね!ごめんね!
一人にしてごめんね!ごめんね!
実は俺の身体は5年前の状態とはかなり違っていたのだ。
俺は脊髄性筋萎縮症という病気だ。
俺が治療入院していた時代はあまり研究が進んでなく、この病気に対して
適切な治療は施されなかった・・・・
俺の病気の特徴として脊椎側湾がある。(脊椎が側方に湾曲する)今はコルセットなどで側湾にならないようにしているが、昔はそんなものはやらなかった。
弾性包帯をきつく巻く程度だったのだ。
成長するにつれ座高が伸びていくのだがそれとともに脊柱を支える筋肉が無い状態だった
俺は壁によりかかる事で身体を支えていた。
そして俺の背中はだんだんと曲がっていった。
背中を真っ直ぐにして座る事が出来なかったのだ・・・
背中を真っ直ぐにした状態はものすごく疲れる
だんだんと倒れていき、しまいには肘をついて身体を支えていた。
療養所に入ったばかりの頃は背中が真っ直ぐだった俺が
千葉に来るころにはかなり湾曲していたのだ。
そんな俺の曲がった背中を見てお袋とおばあちゃんはひたすら泣いていた。
”病院はちゃんとやってくれなかったのかね〜”
”預けるんじゃなかった・・・”
ごめんね!ごめんね!とひたすら泣きじゃくりながら謝っていた。
俺は その姿を見てひたすら悲しかった。
申し訳ないと思ってしまった。
こんなに悲しませてしまった
子供ながらに もう少し訓練をやっておけばよかった!と悲しくなり自分を責めた。
今から思えば訓練をいくらやったところで、側湾は防ぎようがなかったのだが・・・・
こうして一日目が過ぎていった・・・・
寝る時は親父以外のみんなで川の字になって寝た。
俺はなんだかいろいろな想いで胸がいっぱいになってしまいなかなか寝付けなかった。
5年ぶりにやっと家族と一緒に過ごし、これから自分はどういう人生を送っていくのだろう・・・
ぼんやりと考えながらいつの間にか深い眠りに落ちていった。
to be continue
SMAP STATION
最近深刻化してきている地球危機について様々な情報を基に地球の未来を考え、今何をしなければいけないのか? 日々模索しております。 もう時間がありません! 未来の子供を守るために・・・
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