GAKUヒストリー13

中学生活は俺にとってさまざまな事にチャレンジした時代でもあった。

まず音楽に興味をもった。その当時ラジオから頻繁に聞こえてくる音楽は

YMOやインストゥルメンタル調の音楽であった。

テクノサウンドは本当に今までにない斬新なメロディーで心惹かれた。

そういう曲を自分でも作りたい!

と思い作曲を始めた。

しかし俺が作る音楽はいわゆるニューミュージック、松山千春かぶれのような曲だった。

ラジカセで作詞作曲した音楽を録音して、病院に勤めていたピアノが弾ける保母さんに伴奏してもらったり、曲を譜面におこしてしてもらっていた。

後にバンド結成へとつながっていくのだった。

当時まだほとんど普及していなかった、パソコンを患者さんの誰かが持っていた。

それはポケコンというもので、一行しか画面が見えない小型のパソコンでプログラムを小さなキーボードに打ち込み数字ゲームや電子音で曲を作ったり出来るものだった。

俺はそれにものすごく興味を惹かれ、その子に貸してもらって使っていた。

その様子を見ていた先生(Dr)が、「もっといいものがあるよ!」と言ってマッキントッシュ(MAC)のパソコンを持ってきてくれた。

箱型で大きさは18インチの昔のテレビくらいの大きさであった。

俺は今使わないから使っていいよ!とその先生は言い、病棟のみんなで使えるようにしてくれたのだ。

それから俺はパソコンにのめり込んでいってた。そしてどうしても自分のパソコンが欲しくなってしまった。

自分でお金を貯金して、(1年間くらいかけて)MAXパソコンいわゆるベーシックパソコンというものをやっとの思いで購入した。

俺はひたすら音楽の作曲や、YMOの譜面の打ち込みをし、音をつけて自動演奏させていた。

そんな感じで毎日パソコンとにらめっこの日々が続いていた。

それは今現在まで続いており、パソコン歴は長い。


病棟の中ではいつも同じような生活が続いていたが、ある一人の青年の話しをよく耳にするようになり、彼は圧倒的な存在感をかもしだしていた。

GAKUヒストリー11にも出てきた高野岳志その人である。

彼は普通に療養生活を送る事はなかった。

彼なりの価値観を思い切り病院に対してぶつけており、様々な活動を行っていた。

その頃四街道養護学校には高等部はなかった。

高野さんは高等部も新設してほしいと署名運動を始めた。

彼の運動は実を結び、1年後高等部が設立された。

高野さんはその頃には珍しい電動車椅子を使って高等部に進学した。

この頃、24時間テレビのモデルとなった福嶋あき江さんもいた。

彼女も高等部に進み英語の学習に力を入れてのちにアメリカに留学する。


俺が中学生の時、高野さんを筆頭に数人のメンバーで、病院内で療養者による自治会を立ち上げた。


・療養所生活を充実させること

・病因究明と治療法の確立を目指して


この2つをスローガンにかかげ志向会という自治会を作ったのだ。

俺はこの自治会(志向会)に高校2年生から参加した。

高野さんとは約2年間一緒に活動を共にした。

志向会では太陽祭という文化祭のようなものを行っていた。

各病棟ごとにテーマを決めて、模擬店や患者のアート作品などを展示して一般の人達に公開したりした。

筋ジス病棟は6病棟7病棟8病棟とあり、病棟ごとに自治会を作り、週に1回ミーティングと称して、勉強会を行っていた。

それは朝日新聞の天声人語をみんなで読んで感想を述べ合ったり、テーマを決めてそれに関してのレポートを一周間後に提出してもらい、話し合いをしたりした。

俺は7病棟に属しており、7病棟の病棟長は高野さんであった。

高野さんを中心に勉強会は定期的に行われ、そこには指導員という人が関わり、1時間くらいかけて行っていた。

その時間はとても長く感じ、中学生の俺には話が難しくつらかったのを覚えている。

テーマの題名は "依存とは何か?"とか  "安楽死について"  "自立について"などであった。

テーマはみんなで感心のある事を出し合って決めた。

高野さんはいつも司会役を勤めていた。

テーマの内容が内容だけに、かなり重い空気が流れていた。

高野さんは弁論がたち、いつもさまざまな問いかけをし、そこにいるみんなに投げかけるのであった。「これについて思う考えを聞かせてほしい」そう言って時には名指しで意見を求める事もあり、指名された人は動揺してただうつむくばかり・・・そんな状況に、高野さんは声を荒げて『お前!ちゃんと考えているのか!?』と一喝する場面もみられた。20人弱の集まったメンバーは一様に どうか俺(私)を指さないでくれ〜! と心の中で祈っている状態だった。

高野さんはとても熱い人で、誰も高野さんについていける人はいなかったと思う。

7病棟以外の病棟についてはどんな事を行っていたかは分からないし、もしかしたら、7病棟だけがこのような勉強会をしていたのかもしれない。

自治会活動は決して平坦なものではなかった。

病院側と自治会で話し合いの場を設け、いろいろな話し合いが行われた。

話し合いの中で高野さんは自治会の代表として交渉を行った。

時には対立するような場面もあったが、高野さんは粘り強く交渉を続け

療養所での生活を充実させるという目標には一歩近づいた。

主に看護婦さん含め職員の人達の療養者への接しかたの改善である。

その頃の高野さんは他の療養者達とはかなり異質な存在だった。

リーダー的存在でみんな彼には一目置いていた。

高野さんの意志は強く一度思ったら決して曲げない強気な性格だった。

弁論も達ち、誰もたちうちできない感じであった。

しかし、俺はその時の高野さんに最初はすごい人だと思っていたが、だんだんと反感を持つようになってしまった。

それは、圧倒的なリーダーシップで周りの意見を聞かない高野さんに対し威圧感と違和感を感じたからであった。

ある日俺は高野さんと話をしている時についに、爆発してしまった。

『あんたのような、周りの事を考えられない卒業生にはぜったいになりたくない!』

と啖呵を切ってしまったのだ。

しかし高野さんは黙って、そんな俺を相手にしない!というような態度でいた。

しばらく沈黙が続き、夕食の時間になってしまった。そのまま離れ気まずい感じのまま別れてしまった。

その後しばらくしてから、高野さんに

「おまえくらいだよ、俺に食ってかかってきたのは。お前は多分これから、病棟のみんなの事を考えて行動していくだろうな!」と笑いながら言っていた。

俺はそれを聞いて今までの病棟での生活で親友の死や、理不尽な扱いを受けて泣いている人達を見てきて、やはり自分にできる事をやっていかなければならないな。と感じていた。

俺が高校3年生の時高野さんと共に何人かの人達と広報部を作り、療養者達の書いた記念文集の発行を行った。

文集の名前は "翼を求めて" だ。

内容はまず日常生活についてのアンケートをとり、その結果を載せたのだ。

アンケートの内容についてはあまりよく覚えてはいないが、施設で療養している人達の

本音をかいまみるようなアンケート内容であった。

その他手記や詩などが掲載されていた。

その当時、筋ジス病棟(難病肢体不自由療養所)は全国各地にあった。

その中で自治会活動をしていたのは、仙台の西多賀病院と四国の徳島療養所そして下志津病院の3つだけだった。

その3つの病院の自治会で連携を取り、研究所設立の為の嘆願書を国に提出したのだ。

その当時の総理大臣は田中角榮さんだった。

研究所の設立を約束してもらい、資金が研究費に回る予定であったが、その後田中角榮さんのロッキード事件が明るみになり、その研究費は大幅に縮小される事になってしまった。

しかしその後も私達は諦めることなく、その関係者(総理大臣、厚生大臣、研究施設等)にハガキを送り続けていた。

高野さんがいつも、言っていた事があった。

それは

『俺たちはこんなところで、のほほんと生きて終わるような人生を送るべきではないし、この狭い世界から出て、世間の人達に自分達の存在をもっと知ってもらい、地域に根ざした生活をを送るべきなんだ!』

その言葉をきいて俺は全く同感だったし、今の生活から抜け出し地域社会に出るべきなんだ!と思うようになっていった。

俺にとって高野さんは俺の人生の考え方を大きく変えてくれた人であった。

その後高野さんは自立生活に向かってまい進することになる。




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